災害の歴史

京都市の災害の歴史

京都市は内陸活断層の密集する地域にあり、過去数10万年の間続いている活断層の運動で形成された都市であり、規模の大きな地震が発生し強振動を経験する頻度が高い都市です。
 過去に被害を及ぼした地震をみると、プレート境界におけるプレートの沈み込み運動によるマグニチュード8クラスの巨大地震と、活断層帯のマグニチュード7クラスの大規模地震があります。
 日本海溝や南海トラフのプレート境界では、数10年から150年に一度というような頻度で同じ所が活動する巨大地震の繰り返しがあります。
 一方、陸地では活断層帯を動かす大地震が起こるが、同じ活断層帯では数百年から数千年に一度というような頻度で大地震が起こります。北陸および近畿の中央部など、中央構造線より北側で、糸魚川−静岡構造線よりも西の地域は、地質構造からは西南日本内帯と呼ばれ、とくに活断層が密集して分布しています。活断層の運動のうちの上下運動が、この地域に大きな平野や盆地を発達させました。
 その平野や盆地に都が置かれ大都市が発達してきました。したがって、この地域では活断層帯を動かす大規模地震が大都市の直下で起こる可能性があります。
 さらに、マグニチュード6クラスの地震は、日本列島のような変動帯では、プレート境界や活断層とは関係なく、どこでも起こる自然現象であり、この程度の地震でも局所的には被害を出すことがあります。

京都盆地とその周辺地域の主な地震被害

表中の年月日の前に□印のあるものは、南海トラフのプレート境界の巨大地震と考えられるもの、◇印のあるものはその他の京都周辺の地震であり、そのうち■や◆のあるものは特に京都盆地に大きな影響のあったと思われるものである。

416年8月23日
(允恭5年7月14日)
遠飛鳥宮付近(大和)の地震
「日本書記」に「地震」とあるのみ。被害の記述はないが、わが国の歴史に現れた最初の地震の資料である。(允恭天皇の皇居は遠飛鳥宮<奈良県明日香村か>。陵は大阪府南河内郡)
599年5月28日
(推古7年4月27日)
大和の地震 M7
倒潰家屋を生じた。「日本書記」にあり、地震による被害の記述としてはわが国最古のもの。「・・地動、舎屋悉破、則令四方、俾祭地震神」。(推古天皇の皇居は豊浦宮と小墾田宮<共に奈良県明日香村>)
684年11月29日
(天武13年10月14日)
土佐その他南海・東海・西海地方の地震 M8.3 津波
山崩れ、河湧き、家屋社寺の倒潰、人畜の死傷多く、津波来襲して土佐の船多数沈没。土佐で田苑50余万頃(約12k㎡)沈下して海となった。南海トラフ沿いの巨大地震と思われる。
734年5月18日
(天平6年4月7日)
畿内・七道諸国の地震
民家倒潰し圧死多く、山崩れ、河塞ぎ、地割れが無数に生じた。
827年8月11日
(天長4年7月12日)
京都の地震 M6.8
舎屋多く潰れ、余震が翌年6月まであった。
868年8月3日
(貞観10年7月8日)
播磨・山城の地震 M7
播磨諸郡の官舎・諸定額寺の堂塔ことごとく頽れ倒れた。京都では垣屋に崩れたおもがあった。山崎断層の活動による。
887年8月26日
(仁和3年7月30日)
諸国(主として西日本太平洋側)の地震 津波
京都で諸司官舎および東西両京の民家の倒壊あり、圧死者多数。五畿七道諸国で官舎破損多し。津波あり、溺死者多数。摂津の国で浪害が最もひどかった。余震8月末まで続く。南海トラフ内側のM8級の巨大地震とみられる。
938年5月22日
(天慶元年4月15日)
京都・紀伊の地震 M7
宮中の内膳司頽れ、死4。舎屋・築垣倒れるもの多く、堂塔・仏像も多く倒れる。高野山の諸伽藍破壊。余震多く、8月6日に強震があった。
976年7月22日
(貞元元年6月18日)
山城・近江の地震 M6.7以上
両京で屋舎・諸仏寺の転倒多く、死50以上。近江の国府・国分寺・関寺(大津市)で被害。余震が多かった。余震7月末まで続く。7月13日地震のため改元。
1096年12月17日
(永長元年11月24日)
畿内・東海道の地震 M8級 津波
大極殿小破、東大寺の巨鐘落ちる。京都の諸寺に被害があった。近江の勢多橋落ちる。津波が伊勢・駿河を襲い、駿河で社寺・民家の流失400余。余震が多かった。東海沖の巨大地震と見られる。
1099年2月22日
(康和元年1月24日)
南海道・畿内の地震 M8級 津波
興福寺・摂津天王寺で被害。土佐で田千余町みな海に沈む。津波があったらしい。南海沖のM8級の巨大地震とみられる。
1185年8月13日
(文治元年7月9日)
近江・山城・大和の地震 M7.4
京都、特に白河辺りの被害が大きかった。社寺・家屋の倒潰破壊多く、死多数。宇治橋落ち、死1。三井寺金堂回廊倒れ、比叡山でも被害が大きかったらしい。
 琵琶湖の水北流し水位下がり、後日旧に復した。田3町淵となる。余震9月末までに約230回に及んだ。8月12日の余震も強かった。
1317年2月24日
(文保元年1月5日)
京都の地震 M6.5〜7
これより先1月3日に京都に強震、余震多く、この日大地震。白河辺の人家悉く潰れ、死5。諸寺に被害、清水寺出火。余震が5月になっても止まらなかった。5月半ばまで地震多し。1317年2月22日の地震と併せて群発地震か。
1360年11月22日
(正平15年10月5日)
紀伊・摂津の地震 M7.5〜8 津波
4日に大震、5日に再震。6日の六ツ時過ぎに津波が熊野尾鷲から摂津兵庫まで来襲し、人馬牛の死が多かった。
1361年8月3日
(正平16年6月24日)
畿内・土佐・阿波の地震 M8級 津波
摂津四天王寺の金堂転倒し、圧死5。その他、諸寺諸堂に被害が多かった。津波で摂津・阿波・土佐に被害、特に阿波の雪(由岐)湊で流失1700戸、流死60余。余震多数。南海トラフ沿いの巨大地震と思われる。
1498年9月20日
(明応7年8月25日)
東海道全般の地震 M8級 津波
紀伊から房総にかけての海岸と甲斐で震動大きかったが、震害はそれほどでもない。津波が紀伊から房総の海岸を襲い、伊勢大湊で家屋流失1千戸、溺死5千、伊勢・志摩で溺死1万、静岡県志太郎で流死2万6千など。南海トラフ沿いの巨大地震とみられる。
1510年9月21日
(永正7年8月8日)
摂津・河内の地震 M6.5〜7
摂津・河内の諸寺で被害。大阪で潰死者があった。余震が70余日続く。
1520年4月4日
(永正17年3月7日)
紀伊・京都の地震 M7以上 津波
熊野・那智の寺院破壊。津波があり、民家流失。京都で禁中の築地所々破損した。
1596年9月5日
(慶長元年閏7月13日)
畿内の地震 M7.5
京都では三条より伏見の間での被害が最も多く、伏見城天守大破、石垣崩れて圧死約500。諸寺・民家倒潰も多く、死傷多数。堺で死600余。奈良・大阪・神戸でも被害が多かった。余震が翌年4月まで続いた。
1605年2月3日
(慶長9年12月16日)
東海・南海・西海諸道の地震 M8級 津波
ほぼ同時に2つの地震が連発した可能性がある。
「慶長地震」:地震の被害としては淡路島安坂村千光寺の諸堂倒れ、仏像が飛散したとあるのみ。津波が犬吠崎から九州までの太平洋岸に来襲して、八丈島で死57、浜名湖近くの橋本で100戸中80戸流され、死多数。紀伊西岸広村で1700戸中700戸流出。阿波穴喰で波高2丈、死1500余。土佐甲ノ浦で死350余、崎浜で死50余。室戸岬付近で死400余など。ほぼ同時に二つの地震が起こったとする考えと、東海沖の一つの地震とする考えがある。
1662年6月16日
(寛文2年5月1日)
山城・大和・河内・和泉・摂津・丹後・若狭・近江・美濃・伊勢・駿河・三河・信濃の地震 M7.5
比良岳付近の被害が甚大。滋賀唐崎で田畑85町湖中に没し潰家1570。大溝で潰家1020余、死37。彦根で潰家1千、死30余。榎村で死300、所川村で死260余。京都で町屋倒壊1千、死200余など。諸所の城破損。江戸・長崎で有感。余震12月まで続く、大規模な地震でM7.5あるいはそれ以上か。比良断層系。または花折断層から発生したという見方がなる。
1707年10月28日
(宝永4年10月4日)
五畿・七道の地震:「宝永地震」 M8級 津波
わが国最大級の地震の一つ。全体で少なくとも死2万、潰家6万、流失家2万。震害は東海道・伊勢湾・紀伊半島で最もひどく、津波が紀伊半島から九州までの太平洋沿岸や瀬戸内海を襲った。
 津波の被害は土佐が最大。室戸・串本・御前崎で1〜2m隆起し、高知市中西部の地約20km2が最大2m沈下した。遠州灘沖および紀伊半島沖で二つの巨大地震が同時に起こったとも考えられる。近畿地方内陸部でも震害は大きく、潰家大和郡山で468、柳本690、奈良65。大阪では津波による橋や船の被害も多かった。潰家500余〜約1800(約8千〜1万6千世帯)、死500余(打たれ死3600〜7千、水死1万2千)。落橋30〜50。
 徳島県下では波高5〜7m、牟岐死110余、浅川140余。高知県沿岸では推定波高5〜8(25)−潰家約5千、流失家屋約1万2千、死者行方不明併せて約2800。種崎では一木一草も残らず死700余、宇佐死400、須崎死300、久礼死100余。
 瀬戸内海では、高松領内で潰家約950、円亀領内で413、福山(含靹)60など。山陰では杵築<大社町>の潰家130が目立つが、ここは1946年南海地震のときも被害が目立った。九州佐伯潰約100、推定津波波高約3m、流失約400、死22。日向天領で潰家440、死1。道後温泉145日止まり、湯ノ峯・山地・龍神・瀬戸・鉛山の湯が止まった。室戸岬1.5m隆起し、津呂・室津では大型船入津が不可能になった。高知市の西隣では約20km2が最大2m沈下、船で往来したという。串本1.2m、御前崎1〜2m隆起。この地震の激震地域、津波来襲地域は、安政元年11月4日東海地震と、11月5日南海地震を併せたものによく似ている。M8級の二つの巨大地震がほとんど同時に起こったのかもしれない。
1819年8月2日
(文政2年6月12日)
伊勢・美濃・近江の地震 M7.3
近江八幡で潰家82、死5。木曽川下流では香取(多度町)で40軒全滅。金廻では海寿寺潰れ圧死70。名古屋・犬山・四日市・京都などのほか、金沢・敦賀・出石・大和郡山などでも被害。
1830年8月19日
(天保元年7月2日)
京都及び隣国の地震 M6.5
洛中洛外の土蔵はほとんど被害を受けたが、民家の倒潰はほとんどなかった。御所・二条城などで被害。京都での死280。上下動が強く、余震が非常に多かった。鳴動あるいは弱い前震で始まった。上下動が強かったらしい。京都や亀山<亀岡>で被害が多かった。二条城本丸大破、御所破損、堂社仏閣・御殿・表通りの町屋の倒壊は少ない。石垣・築地の崩れ、門・塀・端々の民家の倒壊多く、壁・瓦・庇の落下が多い。
 西本願寺1尺ほど傾く。愛宕山の坊2,3(を残して)崩潰。京都で死280、地割れあり、泥噴出、宇治川通りの堤防崩れる。伏見で町屋の倒壊あり。淀で城の櫓・石垣破損、領内で潰4。大津で潰6、死1。丹波亀八つで崩家41、死4。高槻・茨木被害なし。出雲・美作で有感。余震は非常に多く、翌年11までに635回以上。
1854年7月9日
(安政元年6月15日)
伊賀・伊勢・大和及び隣国の地震:「伊賀上野地震」 M7.3
6月12日ころから前震があった。15日0〜2時ころ本震、6〜8時ころ最大余震があったようだが、地域によっては、ほぼ同じように感じ、四日市付近などでは後者を強く感じたようである。
 伊賀上野から奈良・大和郡山にかけての地域で被害が著しく、伊賀上野町方で全壊460余、死130、郷方で全壊1400〜1800、死460余、奈良で全壊約500、死60余(300余)、大和郡山全壊約150、死120〜130。四日市でも被害多く、全壊300〜400、死70〜80、焼失60余、焼死約60。
 木曽川、町屋川、明朝川、鈴鹿川などの土手に裂け目ができたり、沈下したところが多かった。紀伊半島沿岸の住民は津波の心配をしたという。木曽馬篭付近で往環損じた。宮津でかなりゆれ、広島有感。上野の北方で西南西−東北東の方向に断層を生じ、南側の約1km、幅約200mの地域が最大1.5m沈下したという。木津川断層系から発生した地震と考えられる。
1854年12月23日
(安政元年11月4日)
東海・東山・南海諸道の地震:「安政東海地震」 M8級 津波
被害は関東から近畿に及び、特に沼津から伊勢湾にかけての海岸がひどかった。津波が房総から土佐までの沿岸を襲い、被害をさらに大きくした。この地震による居宅の潰・焼失は約3万軒、死者は2千〜3千人と思われる。沿岸では著しい地殻変動が認められた。地殻変動や津波の解析から、震源域が駿河湾深くまで入り込んでいた可能性が指摘されており、すでに100年以上経過していることから、次の東海地震の発生が心配されている。
1854年12月24日
(安政元年11月5日)
畿内・東海・東山・北陸・南海・山陰・山陽道の地震:「安政南海地震」 M8級 津波
東海地震の32時間後に発生、近畿付近では二つの地震の被害をはっきりとは区別できない。被害地域は中部から九州に及ぶ。津波が大きく、波高は串本で15m、久礼で16m、種崎で11mなど。地震と津波は被害の区別が難しい。死者数千。室戸・紀伊半島は南上がりの傾動を示し、室戸・串本で約1m隆起、甲浦・加太で約1m沈下した。大阪湾北部で推定波高2.5m、大阪で津波が木津川・安治川を逆流し、停泊中の船多数(8千とも)破損し、橋々をこわし、死者700余(約400、2千、3千、7千などの説もあり)。
 紀州沿岸熊野以西大半流出。紀州領(勢州領分を含む)潰破損家1万8千余、流失約8500。流死約700。広・湯浅推定波高4〜5m、併せて全壊約20、流失家屋300余、死約60。紀伊田辺領潰250余、流失530余、死24。袋湊で約7m。津波は北米沿岸に達した。松山領で城中・町家・百姓家合計潰約1500、丸亀で潰50。加古川潰約80、広島で潰22、岡山町方潰半潰89、死1。出雲杵築(大社)辺で潰150、この地区は1707年宝永地震、1946年南海地震などでも被害が大きかった。
 高知市付近は約1m沈下し浸水、上ノ加江付近で約1.5m、甲ノ浦で1.2m沈下、室戸岬で1.2m隆起。(和歌山県)加太で1m沈下、串本で約1m隆起。湯ノ峯温泉、道後温泉止まり、翌年2〜3月ころから出はじめる。紀伊鉛山湾の温泉も止まり、翌年5月ころから冷水が出はじめ、翌々年4月ころ旧に復した。紀伊有田郡横浜村では10月中旬から汐の干満が常ならなかった。また、10月下旬から小地震を感じた。
1899年3月7日
(明治32年)
紀伊半島南東部の地震 M7
奈良県吉野郡・三重県南牟婁郡で被害が大きく、木ノ本・尾鷲で死7、全壊35、山崩れ無数。大阪・奈良で煉瓦煙突の破損が多かった。
1909年8月14日
(明治42年)
滋賀県姉川付近の地震:「江濃(姉川)地震」 M6.8
虎姫付近で被害が最大。滋賀・岐阜両県で死41、住家全壊978。姉川河口の湖底が数十m深くなった。
1925年5月23日
(大正14年)
但馬北部の地震:「北但馬地震」 M6.8
円山川流域で被害多く、死428、家屋全壊1295、焼失2180。河口付近に長さ1.6km、西落の小断層二つを生じた。葛野川の河口が陥没して海となった。
1927年3月7日
(昭和2年)
京都府北西部の地震:「北丹後地震」 M7.3 津波
被害は丹後半島の頚部が最も激しく、淡路・福井・岡山・米子・徳島・三重・香川・大阪に及ぶ。全体で死2925、家屋全壊12584。郷村断層(長さ18km、水平ずれ最大2.7m)とそれに直交する山田断層(長さ7km)を生じた。測量により、地震に伴った地殻の変形が明らかになった。
1936年2月21日
(昭和11年)
大阪・奈良の地震:「河内大和地震」 M6.4
死9、家屋全半壊148。地面の亀裂や噴砂・湧水減少も見られた。
 主として、大阪−奈良県境山地を挟んで、奈良盆地と大阪府南河内郡東部に瓦の落下、壁の破損、土塀・築地塀の崩壊、道路・堤防の亀裂、墓石転倒などの被害を生じた。
1944年12月7日
(昭和19年)
東海道沖の地震:「東南海地震」 M8級 津波
静岡・愛知・三重などで合わせて死・不明1223、住家全壊17599、半壊36520、流失3129。このほか、長野県諏訪盆地でも住家全壊12などの被害があった。津波が各地に来襲し、波高は熊野灘沿岸で6〜8m、遠州灘沿岸で1〜2m。紀伊半島東岸で30〜40cm地盤が沈下した。
1946年12月21日
(昭和21年)
南海道沖の地震:「南海地震」 M8級 津波
被害は中部以西の日本各地にわたり、死1330、家屋全壊11591、半壊23487、流失1451、焼失2598。津波が静岡県より九州にいたる海岸に来襲し、高知・三重・徳島沿岸で4〜6mに達した。室戸・紀伊半島は南上がりの傾動を示し、室戸で1.27m、潮岬で0.7m上昇、須崎・甲浦で約1m沈下。高知付近で田園15km2が海面下に没した。
1952年7月18日
(昭和27年)
奈良県中部の地震:「吉野地震」 M6.8
震源の深さ60km。和歌山・愛知・岐阜・石川各県にも小被害があった。死9、住家全壊20。春日大社の石灯篭1600のうち650倒壊。
1995年1月17日
(平成7年)
兵庫県南部の地震:「平成7年兵庫県南部地震」:「阪神・淡路大震災」 M7.2
死者6308。活断層の活動によるいわゆる直下型地震。神戸、洲本で震度6だったが現地調査により淡路島の一部から神戸市、宝塚市にかけて震度7の地域のあることが明らかになった。多くの木造家屋、コンクリートの建物のほか、高速道路や新幹線を含む鉄道道路なども崩壊した。被害(5月21日現在)は死・不明5504、傷4万以上、住家全半壊20万以上、火災294件など。早朝であったため、死者の多くは家屋の倒壊と火災によるもの。

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